静行くんは、当時5歳の男の子。

お父さん、お母さん、妹と、家族4人で仲良く暮らしていました。

ある日、とてつもなく強力な爆弾が上空で破裂し、静行くんは大好きだった家族を失いました。

このホームページは、静行くんの日常に突然起こった出来事をお伝えするために作成しています。

今後、少しずつ文章等を集めていく予定です。

あの時、

一緒に死んでしまえばよかった・・・


2017.7.26更新

 

当時の家族と暮らし

 

1945(昭和20)89日長崎にピカドンが落ちた。

ピカー!と光線が走り、数秒してドーン!ととてつもなく大きい音がした。

長崎では長いこと、原子爆弾とは言わずに、ピカドンと言っていました。私が5才の時に体験したピカドンと、その後の母との暮らしをお伝えしようと思います。

 

当時の自宅は橋口町126番地。爆心地から北に500メートルもないところに、両親と3才の妹と4人で仲良く暮らしていました。

 

ピカドンの数日前。たまたまお腹をこわした妹は、竹の久保町の病院に入院し、母親も妹に付き添いました。爆心地から1キロくらいのところです。

まだ5才だった私は、爆心地である松山町から南に5キロメートルほど離れた、小菅町の母方の祖父母に預けられました。

橋口町の自宅には父親だけが一人で残り、そこから勤務先の大橋町の三菱兵器製作所に通っていたわけです。

 

父のことはあまり記憶がありません。

どちらの家庭でも同じかもしれませんが、父親は朝早く出勤して夕方に帰ってきます。ましては戦争中で戦局不利の状態でしたから、ほとんど休み無しの状態だったのではないかと思います。

元々酒も飲まない、無口な人だったと戦後に母から聞きました。

 

父はどこで死んだのでしょうか。

遺体遺骨は確認出来なかったそうです。ピカドンでは、そんな人そんな家族がたくさんいました。

母は勤務先の工場に山積みになった遺骨を少し戴いてそれを奉ったと言っていました。

 

妹が病気になって入院するまでの生活は、戦時中とは言え、比較的平穏だったと思います。

私は歩いて15分くらいの浦上天主堂近くの幼稚園に、現在の如己堂(長崎の鐘のモデル、故永井隆博士の住み家)の前を通って行っていました。時々途中で空襲警戒警報のサイレンが鳴って走ったことを覚えています。

 

警戒警報と言えば、一番嫌だったのは、昼に何事もなく夜やっと布団に入って眠りに就いているときに突然サイレンがなり、両親に起こされて防空頭巾を被せられ、近くの山里小学校 の防空壕に行かなければならないことでした。今に例えれば、突然の豪雨とか地震で急遽避難しなければならない状態でしょうね。

防空壕に居ても、飛行機の空襲時の急上昇の音は心臓が張り裂けるくらい恐ろしかったし、近くに爆弾が落ちると中がユサユサと揺れて、上から土がバラバラと落ちて来るのです。いつ生き埋めになるかも知れないと震えました。

戦争が終わったと知ったとき、ピカドンで大変な状態のさ中、一番嬉しかったのが「これでゆっくり寝ることが出来る」ということでした。

  

祖父母の家には祖父母と叔父が2人、叔母が一人の5人が住んでいました。

大きな仏壇があり、その上の壁には天皇陛下と皇后さまの写真が立て掛けてありました。

祖父母や叔父たちは毎朝両手を合わせて「・・あっ」と拝んでいました。

木目のラジオがあり、針を小さな明かりがついた目盛りに合わせて「ピーピー、ザザザ」という音の中から、警戒警報や空襲警報の放送を聴いてた記憶があります。

 

 

あの日。

 

194589日朝、警戒警報のサイレンが鳴りました。

その頃はもう慣れっこになっていて、慌てて避難することもなく、風通しの良い西向きの縁側に叔父と寝転がっていました。

すぐに警報が解除になりました(戦後みなさん、同じことをおっしゃっていました)。

 

何時間経ったか忘れましたが、いきなり白い光線がピカーッと走りました。

それだけでは何が起こったかは分かりません。

数秒後、ドーンととてつもない音と振動がしました。

叔父が、「焼夷弾が落っちゃけた!と叫びました。

驚いて立ち上がった私は、爆風で壁に打ち付けられましたが、まだ空調機のなかった当時、夏はすべての戸や窓は開いていました。その事が、却って木造の家が破壊されるのを免れたと思います。幸い、怪我はありませんでした。

そのあと、すぐに祖母や叔父と家の外にあった防空壕に逃げ込みました。

 

防空壕の中で様子を窺っていると、急に外が暗くなりました。後で知ったことですが、おそらく原子雲が拡がったせいだったのでしょう。

結局、夕方までそのままじっとしていました。

 

祖父母の家は高台にあって、30メートルほど歩くと峠があり、そこから長崎港と北へ拡がる街並みを一望することが出来ました。

夕方、峠へ行って市街を眺めると、赤い炎がものすごい勢いで夕暮れの街に拡がっていました。

あまりにも恐ろしい光景に、身の震えが止まりませんでした。

 

私が居た小菅町は、爆心地から南へ約5キロメートルのところにありました。低い山に囲まれた町でしたから、特に燃えているところもなく、普通の状態でした。

 

しかし、峠から見る光景は炎の海でした。

 

あの炎の中に沢山の人が居たのですが、恥ずかしながら、私はただ自分の父親、母親、妹のことだけを心配しました。心配と言うよりは、もう茫然とするほかにないという状態でした。

無意識のうちに、もうこれで自分は一人ぼっちになってしまったのだという、それはそれは本当に寂しい気持ちでいっぱいになりました。

その夜は、眠れたのかどうかよく覚えていません。

爆心地付近の工場に勤めていた叔母も、帰って来ませんでした。 

 

翌日になりました。

言葉には出せませんでしたが、もう今日からは一人ぼっちなのだと思いました。誰も具体的な話はしません。情報は全くないし、言葉にするのが恐かったのだろうと思います。

 

お昼近くでした。

突然玄関に人が来ました。

祖母が「ツユコ!」と叫びました。私の母の名前です。

玄関に行くと、そこには髪を振り乱し、ボロボロになったシャツを着た母が立っていました。まるで幽霊の様でした。

背中には、首がぐったりした妹が背負われていました。

私は「お母ちゃん!」と叫び飛び付きました。

 

70年経った今でも、その時の光景と気持ちは心の中に鮮明に残っています。

何も悪いことをしていない優しい母親と小さな妹が、どうしてこんな目に遭わなければならないのか。

本当に悔しく腹立たしい思い出です。

 

あの時の気持ちが私のその後の人生の、体制批判反骨精神の出発点になった気がします。

 

 

家族を探しに

 

その日から、妹を祖父母に預けて、母は私を連れて橋口町の自宅や勤務していた兵器工場へ父を捜しに行きました。

まだ火が燃えているので母は一人で行くつもりだったのですが、私が泣き叫んで一緒に連れて行ってもらったそうです。私は、母と一緒に居ないと、またひとりぽっちになってしまうのではないかと怖かったのです。とても寂しい切羽詰まった気持ちをしっかり覚えています。70歳を過ぎた今も、朝散歩の途中に保育園で母親のあとを追って泣く子供を見ると、なぜか涙が出てしまいます。

  

自宅近くまで出かけ、そこで目にしたものと嗅いだ臭いは、まさに地獄でした。

照りつける真夏の太陽と、いまだにあちこちで火が燃えている地面の熱さ。

馬や牛が黒焦げになって横たわっています。

人間も同じです。

燃えてしまって真っ白な骸骨もあちこちに転がっていました。穴になってしまった目の部分が、悲しそうに全てこちらを見ているようでした。

  

自宅は影も形も有りませんでした。

たくさんの遺骸の遺留物から母が知人のものを見つけたらしく、

 「あら~○○さん! ○○さん!

と名前を呼んで哭いていました。どんなに悲しかったか・・・。

そして焼け残った陶磁器の皿や茶碗のかけらを拾っていました。

  

私はただ茫然として、何も出来ませんでした。

あの時の臭いが堪りませんでした。人間やその他の動物の死臭に加えてそこに至るさまざまの臭いだったのでしょう。

今でも、原爆資料館やその他の展示施設の絵や写真でその凄惨さは見ることが出来ますが、あの臭いだけは伝えられていません。

先日、沖縄の戦時中の避難壕の中の臭いを化学的に再現したとテレビで報道していましたが、その臭いを壕の見学者に体験させたところ、物凄い表情ですぐに跳び逃げていました。

滞留している、血と汗と死体と排泄物の臭い。

私は経験しているので、想像することが出来ました。

沖縄の人、最近の津波の後の被災者の人たちも、同じ体験をなさったと思います。

  

ピカドンが落ちて4日後の813日、妹の美佐子が3才で亡くなりました。

病気で体が弱っていたし、お袋に背負われて火の中を一晩中逃げ回って来たわけですから、もう瀕死の状態だったのでしょう。

医者に掛かるお金もなく、ただ横たわってお粥を飲むだけでした。

顔が真っ白くなり、最後に眼の玉がぐるーんと裏返って、それが最期でした。

母は動かなくなった妹を胸に抱いて、「美佐子!美佐子!」と叫びました。

  

翌日、叔父たちが妹を近くの畑に運んで、山の木を組んで焼いてくれました。母はその場には来ませんでしたが、私は男の子ということで最後まで立ち会いました。45時間かかったような記憶があります。

 

当時はたくさんの人が同時に亡くなったので、火葬場も間に合わない状態でした。そのため、多くの方々が妹と同じように自分たちで火葬を行ったことと思います。今考えると不憫で不憫で堪りません。

 

父親は、結局探し出すことは出来ませんでした。

叔母(母の妹)も探しました。皆さん同じだったと思いますが、人の噂で「どこそこが避難治療所になっている」と聞いて、それらを歩き回りました。大学病院、学校など公共の施設が主でした。

 

担ぎ込まれた人々は、コンクリート床や板張りにそのまま寝かされていました。収容された人の名前は、本人が確認出来た人だけが表示されていました。

ですから、行った先々で必ず

「○○さんー! おらんね?」

と呼びかけます。

物凄い悪臭でしたが、人が入って行くとみんな「ぎろっ」とすごい目つきでこちらを見ます。家族知人を求めている、正にそのような表情でした。

 

叔母はなかなか見つかりませんでしたが、もう諦めるしかないと考え始めた頃、50キロほど離れた大村市の海軍病院で発見することが出来ました。

叔母は気がしっかりしていました。額の左側にカボチャの種の形をした傷があり、白い骨が大きく見えていました。左腕にも傷がありました。 

「あら~静行、よう来たね」 

と言ってくれました。よく可愛がってもらいました。腕の傷にはウジ虫がこびりついていて、見るに堪えられませんでした。叔母に 

「捕ってくれんね! 

と言われ、マッチの軸に綿を巻いて捕りました。夜にガリガリと腕の肉を食べるのだそうで、その痛さったら堪らないそうです。今の世では考えられません。

そんな叔母も、ピカドンから1週間ほどで亡くなりました。

 

約一ケ月程父を探して回りましたが、結局、見つかりませんでした。

自分達の生活があるので、母は私を連れて祖母の家を出て働き始めました。叔父(長男)家族も避難して祖母の家に同居していたので、時々いざこざが起こっていたためです。

母は祖母の家の近くに6畳一部屋を借りました。そして米や野菜を農家から仕入れて来て街の道路や近所で売っていました。芋をふかしたものや、タバコの葉っぱを巻いたもの、新聞紙の袋に入れたピーナツなどを売っていました。

袋がこっそり底上げされているのを見て、子供心にずるいと思いました。

 

 

 

 

あれはたしか小学校高学年の時です。学校から街の映画館へ映画鑑賞に行くことになりました。その頃は1年に1回か2回そういうことがありました。

 

団体で約3キロばかりの道を歩いて行く途中、橋の上で56人の女の人が座って物を売っていました。なんとそこに母が居たのです。

 

母は私の学校じゃないかと眼を見開いて私を探している表情でした。私は自分の母親が道路に座って物売りしているのを友達に見られるのがとても辛く悲しかったので、見つからないようにみんなの陰に隠れて通り過ごしました。母親から声をかけられるのがとても怖かったです。

 

その夜、家に帰っても母には何も話しませんでした。

 

親の前を、見つからないように通り過ぎる。ほんとに母に済まないことをしたと、それ以来今までずっと心の中で謝り続けています。

 

 

 

 

身体の変化

 

翌年の昭和21年から、近くの小学校に通うようになりましたが、体の変化に悩みました。

まず、ピカドン放射能の影響なのか、食べ物が無かったための栄養失調のせいなのか、あるいはその両方が原因だったのか、鼻血が頻繁に出ました。

特に鼻を打ってもいないのに、朝顔を洗うと鼻血が出る。寒くなってくしゃみをすると出る。時には夜寝ていても鼻が温かくなると出る。本当に悩まされました。いつも鼻に詰めるものを持ち歩いていました。これは悲しいことに60才代まで続きました。70才になって仕事を辞めてからは落ち着いています。 

それから、これもしょっちゅうでしたが、眼に「ものもらい」ができました。

長崎では「めもらい」と言っていました。潰して治ったとおもったらすぐまた出来る。外見上みっともないし、憂鬱でした。

 

中学生になると、めもらいに加えて背中や腰、お尻に膿疱が出来ました。火山のような形の最大直径10センチくらいの出来物です。痛みは大きくなるまではそんなになく、2週間くらいして膿を綿棒で取り出すと治るのです。3年くらい悩まされました。病院に行くお金も無いので、すべて自分で処置しました。

母の体調はよく分かりませんでしたが、いずれにしても毎日行商に出ないとお金が入らないので、朝から晩までほとんど家には居ませんでした。

膿疱などには魚の膓(内臓)が良いという噂だったので、そればかり食べていました。長崎は水産県ですからそれらを食べるには不自由はしなかったのですが、私は嫌で嫌で堪りませんでした。

  

小学校中学校では、同期生が年に一人か二人がいつの間にか亡くなっていました。その地域は爆心地から約56キロのところで直接に被爆した地域ではなかったのですが、私同様すぐに爆心地に入った人も多かったはずです。顔がだんだんと白くなって、体操の時間を休む人も多かったです。

  

私は兄弟は無いし、母はほとんど家に居ないので寂しくて、中学校から野球部に入りました。夕方暗くなるまで練習するし、休日も練習があってそれが嬉しかったのです。部長先生も先輩も同級生も、好い人ばかりでした。

 

高校に行っても野球を続けました。1年生の秋からレギュラーになれて3年生までずっとショートを守りました。2年生の時に仲間のピッチャーが凄くて県大会はほとんど優勝、九州大会にも出場しました。夏の甲子園大会では地域決勝戦まで行きましたが、破れました。当時は今のように各県1校でなく、西九州代表と言って熊本・佐賀・長崎の3県から1校でした。これまでの人生で、妹が亡くなった時、母が亡くなった時、この決勝戦で負けた時が最高の悲しみです。

今でもほとんど毎年夏の甲子園に観戦に行きますが、負けて最後の挨拶のためにホームベースに並んで立つ選手たちを観ると一緒に泣いてしまいます。 

高校生、大学生の頃は、眼もらいを除けば体調は普通でした。成長期で体力があったのでしょう。

 

母は、私が大学生になった頃から、時々ピカドンの話をするようになりました。

妹をおぶって逃げた道々のこと。道に転がっていた人から「水をください」「水ばくれんね」とすがられたそうです。肩から水筒を下げていたから。自分の為にも大切だし、水を飲ませたらすぐ死ぬと言われていたので振り切ったと泣いていました。妹は背中で「お母ちゃん、熱か~、熱か~」と言っていたそうです。火の中ですからね。

母は、その話をするときにはいつも泣いていました。私はそれが嫌で、母がその話をするたびにその場を離れました。申し訳ないことでした。

歌手の阪本冬美さんの「熱か~熱か~」という歌を聴くとその事を思い出して涙が出ます。意味は全く違うのに・・・。悲しいことです。

 

社会人になって60才くらいまで、体調は落ち着きましたが、鼻血は相変わらずでした。

45才の頃、東京で仕事するようになりました。長崎では被爆者であることは普通のこととして仲間内でも病院に行っても話をしていましたが、東京では「えっ!」という感じで相手の人が身構えるように感じました。「あ、これはあまり言わない方が良いな」と思いました。

特に病院の受付で、被爆者手帳を提出するのに肩身の狭い思いをしました。それでも、会社の定期検査では、50才以後は勇気を持って被爆者であることを名乗り、胸のレントゲン撮影を断りました。放射能は、一回当たりは少量で無害とは言え、確実に体内に蓄積されていくということを勉強したからです。最初は不愉快な顔をしていた医者や技師も、3回目くらいから渋々認めるようになりました。レントゲン技師は患者を撮影室に入れてセットをすると逃げるように室外に出て行きますよね。あれを見ていて、これはとても危険なことだと確信しました。歯医者に行ってもレントゲンは断っていて医者を困らせています。

 

 

胃がんの宣告

 

平成23310日、新宿の勤務先近くの病院で「胃癌」の宣告を受けました。そうです、あの大震災の前日です。

実は前年の11月頃から昼御飯を食べた後、なんとなく胃が重く感じられて横になって休憩しなければならなくなりました。習慣にしていた休日夕方の散歩でも、胸の筋肉が痛く感じられるようになって、その痛みの箇所が脇腹だったり、みぞおちのところだったりと移動するのです。背中に移動するとちょっと心配だと思ってたら、年明け2月になって遂に背中に来ました。

家族には何も話しませんでした。ピカドンの影響がいつか出て来るとずっと思っていましたので、年齢的に(71)、とうとう来るべき物が来たかという思いでした。どの臓器か分かりませんが癌も覚悟しました。

日頃からその覚悟で「文藝春秋」で読んだ「治療しない」方針で行くと決めていたし、自身の身体で回復できない物には運命と受け止めて従うつもりでした。

ピカドンで死んだ筈の自分でしたから・・・。

 

しかし昔からの野球仲間の友人に話すと「気持ちは充分に分かる。どうするかは別にして原因や状態は把握した方が良いと思うよ。分かって死んで行く方が良いじゃないか」と言われました。

2月の末に病院へ行って検査を受けました。すべての臓器を診てもらい、最後の胃内視鏡と細胞検査の結果待ちになりました。

そして約1週間後、病院から呼び出しがかかり、胃癌を告げられました。310日のことです。医師は言いにくそうに告げましたが私は意外に素直に受け入れることが出来ました。直ちに入院・手術を薦められました。

私は自分の覚悟と方針どおり拒否することにしましたが、その場で拒否することは医師に対し如何にも失礼なので一日考えさせて下さいと申し上げました。医師はびっくりしていました。

 

翌日、あの大地震があってそれどころではなくなりました。やっと落ちついた頃、3度にわたって医師から呼び出され、手術と治療を説得されました。

私は、しばらく様子を見ることにさせて下さいと言いました。「原爆を受けて一度は死んだ筈だったこと。治療・副作用に対する体力は無いだろうこと。自然死した方が家族の負担も小さいと思うこと。」などを話しました。

あの地震や津波の映像を観て、人間の命のはかなさを強く感じたことも影響しました。うまく言えませんが、これしきの病気で慌てることなんか無いと。

 

私から医師を逆に説得して、結局2年間放置しました。ただ、かねてよりその理論を尊敬していた長崎ご出身の医師を訪ねて、「断食療法」に挑戦しました。痛みは次第に消えて通常の生活を送ることが出来ました。その医師も早めの手術を薦めましたが、私は僅かながらも自然治癒に懸けてみる気持ちにもなったのです。しかし、そううまくは行きませんでした。丸2年後の3月、突然に胃がパンパンに膨れて、食べた物が胃から腸へ流れなくなったのです。これは癌だろうと何だろうととにかく、通じるようにしなくてはならないと、「断食療法」の医師に紹介を受けて自宅近くの病院に行きました。

 直ちに入院、手術、五分の三を摘出しました。癌がリンパ節に転移していて、ステージ3と通告され、更なる再発転移の恐れがあるので、抗がん剤による治療を薦められました。その際、医師は副作用も丁寧に説明してくれました。患者の判断を仰ぐという姿勢に、本当に素晴らしい医師だと思いました。

私は自身の身体に任せるという従来からの信念に従って、これも辞退しました。現在に至るまで私の責任に於いて投薬も放射線治療も受けていません。幸い、手術から2年8ヶ月に至った現在、6カ月毎のMRI検査では異常無しで過ごしています。  

 

 

原爆症認定

 

胃癌の通告を受けてから、小生はその事を意図的に出来るだけ多くの人に連絡しました。多くの体験談や参考意見を聴こうと思ったからです。治療方法にはたくさんの情報を戴きました。放置して成り行きに任せるという方針には、多くの方々の強い反論がありました。

 

その中で注目させられたのは、「原爆症」の問題です。

癌は原爆症の一つとして積極的に認定されるということです。ある友人が「原爆症であれば、申請すれば手当を頂ける」と教えてくれました。私は、手続きも面倒そうだし、放射能による病人というレッテルを貼られて情けない気持ちになりそうで、躊躇しました。

手当てを頂けるのはもちろん経済的には助かるのですが、お金よりも大切な何かを失ってしまい、地の底に落ちてしまうような感じがしたのです。

しかし、「お金の問題ではない。核兵器の恐ろしさを裏付ける一証拠として、認定されるべきだよ。」という友人の言葉が、私の気持ちを決定付けました。

東京都の被爆者援護団体のお世話で申請してから約10ヶ月で、認定証が送られて来ました。私にとっては身に余る手当てを頂いています。

その話をすると、被爆者仲間の一部の人は「それは良かった。おめでとう!」と言いました。また、高校の同期生は「お小遣いが貰えていいな。羨ましい。」と言いました。

何がお目出度いのか。

お小遣いをもらえることが、そんなに良いことなのか。

腹が立ちました。

原爆症認定書が届いた日、私は父母と妹の仏壇の前で一晩泣きました。

「一人だけ生きていて良かったのか、今でも生きていて良いのか・・・」

 

 胃癌を告知され手術をして2年8ヶ月。

 長崎でのピカドン被爆の影響と判定されて、再発転移がいつ来るか。もう、男性としての平均年齢近くですから、私のことは自身の身体に委ねています。

一番心配なのは子供たちへの影響です。いわゆる被爆2世ですからいつ健康上の問題が起こるか。

昔、大学時代の野球部後輩が長崎の被爆者の女性と結婚し幸せな生活を営んでいましたが、娘さんが成長して結婚相手が出来ました。結婚間際になって相手側から突然に断られたそうです。娘さんが被爆2世であることがその理由だったわけです。

後輩は奥さんや娘さんの前で悲しむことが出来ず、私たち仲間と一緒に酒を飲む席で泣いていました。

私も息子たちが結婚するときには、相手側に父親()が被爆者であることを事前に伝えろよと言いました。息子たちは「うん」と返事しましたが、私は「すまん!」と胸の中で泣いていました。

 息子たちが無事であってもその子達は大丈夫か・・・。

 他人からみれば、心配しても仕方がないことでしょう。

 運を天に任せて今日一日を一生懸命生きることだと思っています。

 

私は「夏の花火」と「冬のどんとやき」 が好きでありません。

東京へ来て周りの人にその事を話したら「えっ!?」と不思議な顔をされました。いずれも東京では大事な、そして人気のある風物詩ですからね。最初の反応を見て今後は言わないことにしましたが、その場には行かないことにしています。

花火は、大きければ大きいほど、ピカドンを思い出させるからです。あれは正に「シュルシュルシュル、ピカーッ、ドーン!」です。

どんとやきは、妹の遺体を焼いた状況そのままです。辛くなります。お楽しみの方々には、申し訳ありません。自分だけかと胸の中に閉じ込めてきましたが、先日、ラジオの戦後70年の番組の中で、子供の頃沖縄の地上戦に遭った人が同じことを言っていました。仲間が出来たみたいで、「そうだよね」とひとりごちました。

 

 

語り継ぐこと

 

2016年3月5日、多摩地域の「ワープ」というコミュニティ施設で、「サラダの会」という原爆詩朗読グループの朗読劇が上演されるという知らせがその施設のオーナーの方からありました。遠く茨城県からわざわざ来てくれるというのです。

7人の主婦の方と伴奏のお二人、写真の投影係お一人での朗読劇でした。

素朴ながらも犠牲者への切々とした哀悼と、これからの平和を訴える朗読に、心底、胸を打たれました。

 

終わって質問しました。「メンバーのどなたかが被爆者又はご家族親戚に被爆者がいらっしゃるのですか?」と。

なんと驚いたことに、「いいえ」でした。

感動しました。

そして感謝の気持ちで胸いっぱいになりました。

原爆被爆に何の関係もない方々が、広島と長崎からこんなに遠いところで犠牲者を想い、平和を祈ってくれいる。こんなに嬉しいことはありません。

私の父母、妹も天国で涙を流して感謝し喜んでいるに違いないと思いました。

その場で一人の長崎被爆者として直接お礼の言葉を言い、朗読会に集まった皆さんの前で私の体験を少しお話しました。

 

サラダの会との出会いから約1ヶ月後。

会代表の方から私に、「朗読の台本に貴方の体験を載せたいのですがよろしいでしょうか?」と問い合わせがありました。

戦争と原爆の恐ろしさを後世に伝えなければならないと考えている私は、お役に立てればと承諾しました。

そして8月6日、ヒロシマの日に、つくば市で開催された朗読劇を観に行きました。毎年恒例として市民向けに上演なさっているということです。私の体験記も朗読されました。暑い中、100名ほどの方々が熱心に耳を傾け、涙を流している方もいらっしゃいました。

 

広島や長崎の被爆者自身が直接訴えることは、私からすると、日本と世界の人々の平和な生活のために「当然のこと」であり、残された者の「義務」とも言えると思うのです。

しかし被爆者は年齢的に体力気力が弱くなって、それでなくとも悲惨な体験を思いだし話すことはとても辛い。

サラダの会のみなさんのように、当事者でない方が勇気を持って引き継いでくれていることを、とても嬉しく思います。心から、「どうぞよろしくお願いします」という気持ちです。