■長崎西高校での講演(2017年7月)
被爆体験を朗読するサラダの会が、静行さんの母校(長崎西高校)で朗読を披露しました。
静行さんも同行し、学生たちとともに耳を傾けました。
■つくば市での講演(2016年8月)
被爆体験を朗読するサラダの会が、つくば市で朗読を披露しました。
静行さんも同行し、集まった100人ほどの方々と耳を傾けました。
■広報誌への寄稿(2015年10月)
静行さんが被爆者の広報誌「八六九会たより」(第73号2015年10月発行)に寄稿した文章を転載します。
「お袋への想い」
70年前の8月9日、原爆の投下で、当時28歳のお袋は、夫(小生の父)と3歳の娘(小生の妹)を亡くしました。爆心地から300メートルにあった家も家具もお金もすべてが一瞬でなくなり、お袋は当時5歳の小生と二人っきりになりました。
一時的に実家に居候しましたが、そこには出征していた叔父(お袋の兄)の家族も住んでいて、小生がおぼえている限り、居候が長くなるにつれて肩身の狭い思いをすることが多くなりました。いさかいがあって、何度か安い旅館や野原に寝たことがありました。
なんとか他人の家の部屋を間借りして住みましたが、生活をするためにお袋は色んなことをしていました。田舎へ行って米を仕入れて来て近所の人に売る、芋をふかして街の道路で売る、落花生を新聞紙にくるんで売る。365日、休みなしでした。
帰りはいつも夜の8時や9時で、暗くなってからでした。当時のことですからテレビはもちろん無く、ラジオも暖をとる家具も無く、まったくの寂しい一人ぼっちでした。雨がひどい日に学校から帰ってお袋が家にいると、なんと言うか、嬉しくて嬉しくて、ゆっくりした気持ちになりました。
お袋は時々原爆から逃げて来た時の話をしましたが、いつも泣きながらなので、小生はそれが嫌で嫌でたまりませんでした。男にとって母親が悲しみ泣くのはとても辛いことです。「いっそあの時、一緒に死んでしまえば良かった」と時々言っていました。
その言葉を聞くたびになんともやりきれない気持ちになりましたが、今になって良くわかります。小生は男だし子供でしたからその境遇に順応したのでしょうが、当時28歳のお袋にとっていきなりの夫と娘の喪失、5歳の息子と無一文の生活の始まりはいかばかりだったでしょうか・・・。
高血圧・甲状腺・くも膜下出血など沢山の被爆症を患って62歳で逝きました。
苦労ばかりだったお袋の一生。戦争によって子供や夫を奪われた母親の悲しみ。多くの方々が本当に辛く苦しい一生だったと想います。
■松が谷中学校での講演(2015年8月)
八王子市松が谷中学校において原爆被爆者による講演会が行われ、
静行さんもご自身の体験を語りました。